知的側面
継続的に学ぶこと、知性を磨き広げていく努力をすることは、知的側面の最新再生には不可欠である。学校に通うとか、体系的な学習プログラムを受講するなど、外からの強制的な教育が必要な場合もあるだろうが、たいていはそのようなものは不要である。主体的である人なら、自分の知性を磨く方法をいくらでも見つけられる。(7つの習慣、P.437)
肉体的側面と精神的側面は、それほど抵抗感なく受け入れられると思います。心身健康であるということですから、だれだってそうありたいです。
しかし、「知識≒勉強」ときたとたんに、抵抗を示す人が少なくない。
ほとんどの人は、正規の学校教育で知性を伸ばし、勉学する姿勢を身につける。しかし、学校を卒業するなり、知性を磨く努力をぱったりとやめてしまう人が少なくない。真剣に本を読まなくなり、自分の専門外の分野を探求し知識を広げようとせず、分析的に考えることもしなくなる。文章を書くこともしない。少なくとも、自分の考えをわかりやすく簡潔な言葉で表現する能力を試そうともしないのだ。その代わりにテレビを見ることに時間を使っているのである。(同、P.436)
コビー先生の痛烈な批判。
テレビ…いまじゃスマホばかっかりするな、という感じでしょうか。
振り返っても、小中高の勉強はつまらなかった。
スコアを取ることが目標だったので、学んだことは一つも覚えていない。勉強も、スコアを取るのでいかに効率的に覚え対応するかに始終した。この先入観と辛さがあるから、勉強ということに対して嫌悪感しか湧かないのかもしれない。
自らが、その知識をどう活用するか、明確なイメージがないとなかなか進まない。
食事だって、おいしい、たのしいという価値があるから進む。不味くて、暗い食事は、ただ生きるための摂取だ。
知性を鍛え、自分の頭の中のプログラムを客観的に見つめることはとても大切だ。より大局的な問題や目的、他者のパラダイムに照らして、自分の人生のプログラムを見直す能力を伸ばすことこそ、教育の定義だと私は考えている。(同、P.437)
意義も分かります。
新しい想像は、新たな知的発見から刺激を受けて想像されると、私も考えます。インプットなしにアウトプットはない。コーラーを飲めばゲップが出るし、ごはんを食べるからウンコがでる。これは下世話な原理です。
先生、いまいちノってこない。
強制的に学ぶことを習慣化させることもできます。このブログもそうです。
1日1回の投稿を目標として決め遂行する。
まぁ、私はたのしいですけどね。
本を強制的に読んだりしてもなぁ……。
ここも、追って書いていきたいと思います。